世界が認めた天才! 浮世絵師・葛飾北斎ってどんな人?

世界が認めた天才! 浮世絵師・葛飾北斎ってどんな人?

日本人ならおそらく誰しも見たことがある「波間の富士」や「赤富士」の浮世絵。あまりに有名なこの2図、いつ、誰が描いたかご存知ですか? 描いたのは、江戸時代に活躍した天才絵師・葛飾北斎。一体どんな人物だったのでしょうか。

名作「Great Wave」や「赤富士」を描いた江戸時代の浮世絵師

葛飾北斎(かつしかほくさい・1760-1849)は江戸時代後期に活躍した浮世絵師。現在の東京都墨田区に生まれ、幼い頃から絵を描くことに熱中し、十代の終わりに人気浮世絵師・勝川春章に入門し、絵師となりました。

その代表作が「富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」という46図におよぶ浮世絵版画のシリーズです。北斎は、圧倒的な画力と奇想天外なアイディアとで、全図各地から眺めたさまざまな富士山の姿を描きました。

さまざまな富士山の姿を描いた葛飾北斎の代表作「富嶽三十六景」。
葛飾北斎「冨嶽三十六景」より(画面左上から時計回りに)「尾州富士見原」「凱風快晴」「深川万年橋下」「駿州江尻」*いずれもアダチ版復刻浮世絵(画像提供:アダチ伝統木版画技術保存財団)

「富嶽三十六景」の中に描かれた富士山は、陽光に山肌を赤く染めた雄壮な姿であったり、雷雲の上に頂を突き出す荘厳な姿であったかと思えば、橋桁のはるか向こうや桶の輪の中からのぞく小さな姿だったりと、多種多様。

中でも「波間の富士」の俗称をもつ「神奈川沖浪裏」は、ダイナミックな構図の中に、大自然の脅威と人間の営み、そして全てを超越する霊峰の姿を見事に描いた傑作として、海外でも"The Great Wave"の呼称で知られています。

レオナルドダヴィンチの「モナリザ」と並ぶ名画と称される、世界一有名な浮世絵。
葛飾北斎「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」*アダチ版復刻浮世絵(画像提供:アダチ伝統木版画技術保存財団)

90歳まで真の絵描きを目指し続けた画狂老人

数々の名作を生み出した天才絵師・葛飾北斎。米LIFE誌のミレニアム特集号「この1000年で最も重要なできごとと人物・100選(The 100 Most Important Events and People of the Past, 1000 Year)」の中で唯一紹介された日本人でもあります。

死後150年を経て勝ち得たこうした世界的な評価も、北斎の不断の努力があればこそ。北斎はとにかく研究熱心な努力家。浮世絵の様式を習得するだけでは飽き足らず、さまざまな画派の技法を取り込み、中国や西洋の絵画も研究しました。

長い人生のあいだで様々な画風を試みている。
葛飾北斎「くだんうしがふち」「新板浮絵王子稲荷飛鳥山之図」*アダチ版復刻浮世絵(画像提供:アダチ伝統木版画技術保存財団)

師の春章のもとを離れ、長年オーダー品と読本の挿絵を描いて生活してきた北斎が、錦絵(多色摺版画)というフィールドに再チャレンジし名作「富嶽三十六景」を発表したのは、なんと70歳を過ぎてから。そこには半世紀の画家人生の研鑽の成果が注ぎ込まれていました。

90歳の長寿を全うし、生涯現役。多くの弟子を抱え、人気絵師の名をほしいままにしながらも、本人は最期まで「あと5年、いや、あと10年生き長らえることができれば、真の絵描きになれたのに……」と現状に満足せず、常に高みを目指していたそうです。

そんな彼の雅号(絵師として活動するときの名前)のひとつが「画狂人(または画狂老人)」。神羅万象あらゆるものを描き、画道ひと筋、ひたすら邁進し続けた人生でした。

片付けが出来ない! 改名30回、引越し90回の変わり者

努力家という美談の一方で、北斎にはかなりの変わり者であったというエピソードも。現在、私たちは彼のことを「葛飾北斎」と呼んでいますが、「葛飾北斎」という名前を名乗っていたのは70年の画家人生の一時期。

駆け出しの頃は「春朗」、続いて「宗理」を名乗り、やがて「北斎」「時太郎」「画狂人」……といったように30回も名前を変えています。北極星(北辰)や北斗七星を想起させる「北斎辰政」や「葛飾戴斗」など、かなりかっこつけた名前もあり、雅号にこだわりがあったのかなかったのかは謎です。ちなみに、本名は鉄蔵。

弟子の英泉が描いた北斎の肖像画。
渓斎英泉「為一翁」『戯作者考補遺』より(引用元:国立国会図書館デジタルコレクション

また雅号以上にコロコロ変えたのが住所でした。北斎は片付けがまったくできず、散らかすだけ散らかすと、住居を移転したそう。人生で90回も転居したと伝えられています。料理もまったくせず、買ってきた食事はパッケージのまま器にうつさず、食べたらそのへんにポイ。

北斎については、さまざまなエピソードが伝わりますが、決して愛想の良いタイプでもなく、一般的な衣食住にはほぼ興味がなかったことがうかがえます。きっと絵を描くこと以外には、人にも物にも、とことん無頓着だったのでしょう。ただ甘党だったようで、北斎宅への手土産はお菓子が喜ばれたようですよ。

文・「北斎今昔」編集部