やっぱり天才! ため息が出る北斎の一点モノ
浮世絵には、絵師の下絵をもとに彫師・摺師が量産した「浮世絵版画」と、絵師本人直筆の一点モノである「肉筆浮世絵」があります。一般に広く普及した浮世絵版画と異なり、肉筆浮世絵の多くは、制作された当時から限られた人のあいだでのみ鑑賞されてきました。ここでは、天才・北斎の知る人ぞ知る肉筆浮世絵をご紹介します。
葛飾北斎、職業画家としての生き方
浮世絵師・葛飾北斎(1760-1849)の代表作と言えば、波間の富士や赤富士などを描いた「富嶽三十六景」のシリーズでしょう。これらは木版画で大量に制作され、日本はもとより、海外にまで広まっていきました。
しかし北斎がこうした大量部数の大衆向けの出版物の制作に携わっていた時期は限られていて、画家人生の大半は、オーダーメイドの作品制作に費やされていました。北斎は、江戸の風流人たちの仲間内での配り物の絵や、掛け軸などの一点モノの作品を描いていたのです。
70歳の頃に発表した「富嶽三十六景」が大当たりし、一躍時の人となった北斎でしたが、激しい販売競争の中で、幅広いターゲット層に向けて作品を制作するのは、あまり向かなかったのかもしれません。
最晩年の10年、北斎は主に肉筆画を描いていました。知名度も上がり、単価の高い一点モノの制作にシフトする方が、生計を立てていく上でも効率が良かったのでしょう。
皇室が所蔵するミステリアスな優品「西瓜図」
北斎の肉筆浮世絵の中でも、その完成度の高さと神秘性とで人々を惹きつけてやまないのが、宮内庁三の丸尚蔵館所蔵の「西瓜図」です。この作品を描いたとき、北斎は80歳。
半分に切られた西瓜の上には、一本の包丁。乾燥を防ぐためでしょうか、西瓜に紙が一枚かけられており、切り口が透けて見えます。そして画面上部の紐には、細長く剥かれた西瓜の皮が吊るされています。見れば見るほど不思議な作品。膨大な数の作品を描き、同じ画題に何度も挑戦している北斎ですが、この「西瓜図」については他に類例がありません。
「写生」を唱えた明治の俳人、正岡子規(1867-1902)は、明治23(1890)年に開催された美術展の会場で本作を鑑賞した可能性が指摘されており、その随筆の中で「西洋絵画(の写実性)に匹敵するほど、北斎の西瓜の描写は真に迫っている」と称賛しています。
近年の修復の際の調査と研究により、本図は江戸時代後期の国学者、小林歌城(1778-1862)の所蔵品であったと推測されています。北斎と歌城は、戯作者の柳亭種彦(1783-1842)を介して交流があったと考えられ、歌城が北斎にオーダーして制作された可能性が濃厚です。
量産型の版画と異なり、特定の鑑賞者に向けて制作される肉筆画には、個人的な思い出や特別なメッセージが込められる場合があります。北斎や歌城は、この作品にどんな想いを託したのでしょうか?
海を隔ててにらみ合う龍虎の物語
北斎の肉筆画は、海外に流出した作品も少なくありません。北斎が亡くなる年に描いた渾身の一作が、現在、パリのギメ東洋美術館に収蔵されています。
黒雲の中をうねる龍の姿を描いた「龍図」。まるで画面の中から雷鳴が聞こえてきそうな、気迫に満ちた作品です。
2005年、ギメ東洋美術館の収蔵品の調査にあたった太田記念美術館副館長(当時)の故・永田生慈氏は、そこでこの「龍図」に出会い、太田記念美術館所蔵が所蔵する北斎の「虎図」と一対のものであることを確認します。
2図の掛け軸の表装はまったく同じ物で、画寸法もほぼ同じ。落款(サインの部分)も酷似していて同時期に描いたものと考えられました。そして両作を並べて壁に掛けると、虎と龍の視線はしっかり交じりあったのでした。およそ100年ぶりとなる再会を果たしたフランスの「龍図」と日本の「虎図」は、2007年に開催された「特別展 ギメ東洋美術館所蔵 浮世絵名品展」に共に出品されました。
北斎の描いた龍虎図は、まるで浮世絵が結んだ東西文化の交流を物語るように、今もパリと東京で互いを見つめ合っています。
協力・宮内庁 三の丸尚蔵館、太田記念美術館
文・「北斎今昔」編集部
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