歌麿・写楽を見出した江戸の敏腕プロデューサー! 蔦屋重三郎ってどんな人?
浮世絵版画は、絵師・彫師・摺師の三者の共同制作により生まれます。そしてその企画から制作、販売までをトータルでプロデュースしていたのが、現在の出版社に当たる「版元(はんもと)」の存在でした。「浮世絵の黄金期」と呼ばれる天明・寛政期に、喜多川歌麿と東洲斎写楽という二大スターを生み出したのが、版元・蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)、通称・蔦重。一体どんな人物だったのでしょうか。
吉原文化発信プロジェクト・メディア戦略部長
蔦屋重三郎(1750〜97)は、吉原遊廓(新吉原)に生まれ育ちました。吉原は、人々を非日常へと誘ってくれる魅力的な場所であり、流行の発信地でした。しかし各所に競合が登場し、高級志向の吉原遊廓の人気には次第に翳りが見え始めます。そんな中、重三郎は吉原で本屋を開業。初めは義兄の引手茶屋の軒先を間借りした、ごく小さな本屋(おそらく貸本屋)でした。
重三郎に転機が訪れるのは24歳のとき。吉原のガイドブックである「吉原細見」の改め、つまり編集者に抜擢されます。「吉原細見」は、どの店にどんな遊女がいるかを記したもの。「吉原細見」に掲載されている情報が有用で魅力的でなければ、人々の足は吉原から遠のいてしまいます。重三郎は、吉原の地域活性化に重要な役割を果たす出版物の編纂を担うことになったのです。
重三郎が初めて出版に参画した「吉原細見」は、序文の執筆者に平賀源内(1728-80)を起用したことで注目を集めました。さらに同年、重三郎は吉原の遊女たちをさまざまな花に見立てた美麗な本の出版に携わります。作画を担当したのは、売れっ子絵師、北尾重政(1739-1820)。おそらく一部の遊女屋をスポンサーとして制作されたであろうこの本は、各店の上顧客への贈答品として扱われ、プライスレスな吉原通の証となったのではないかと考えられています。
こうした吉原関連の出版物を通じた話題づくりには、吉原の町のリブランディングの動きを垣間見ることができるでしょう。蔦重は、その中心人物として、言うなれば「吉原文化発信プロジェクト」のメディア戦略部長として活躍しながら、自身の事業を拡大していったのです。
ほどなく蔦重は「吉原細見」の版元となり、読者のニーズに合わせた形式・価格に細見を改訂していきました。そして書店兼版元となった「耕書堂」の主として、さまざまなジャンルの本の出版・販売を手掛けていきます。さまざまな出自・身分の人が集まる吉原遊郭のネットワークをフル活用し、世の中の風向きを敏感にとらえ、頭角を表していきました。天明3(1783)年には、蔦屋は「吉原細見」の出版を独占し、日本橋の通油町に店を構えるに至ります。
手塩にかけて育てた歌麿の才能
版元として盤石の基礎を築きつつあった頃、蔦重は鳥山石燕(1712-88)門下であった絵師の歌麿(1753?-1806)と出会いました。新進気鋭の版元・蔦重と、駆け出しの絵師・歌麿。歌麿は以後十余年、ほぼ蔦屋の専属絵師として筆をふるうことになります。歌麿が、雅号の「北川」を蔦重の養方の姓である「喜多川」に改め、一時は耕書堂に身を寄せていたことからも、蔦重の影響力をうかがい知ることができるでしょう。
蔦重は、当時の江戸の文芸界を牽引していた狂歌師・戯作者たちと交流し、彼らに歌麿の才能を積極的に売り込みつつ、狂歌絵本の出版に着手します。狂歌とは、社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込んだ短歌のこと。狂歌絵本の出版に手応えを感じた蔦重は、やがて木版の技巧を凝らした贅沢な多色摺の狂歌絵本を企画し、作画に歌麿を起用します。『画本虫撰』『百千鳥狂歌合』そして『潮干のつと』の三部作は、人気狂歌師たちのウィットに富んだ言葉と、風雅な趣の歌麿の絵が見事に融合した傑作で、蔦屋ブランドはさらに多くのファンを獲得することになりました。
こうして蔦重は、文化人たちのお墨付きをもらった歌麿の新たな錦絵(多色摺の浮世絵版画)を、満を持して世に送り出します。寛政5(1793)年頃、蔦屋から歌麿の美人大首絵が大量にリリースされました。大首絵とは、上半身あるいは頭部にクローズアップした人物画のことで、それまで役者絵で用いられていた形式でした。
さらに蔦重は、「婦女人相十品(婦人相学十躰)」「歌撰恋之部」などの大首絵のシリーズの背景部分に、鉱物性の粉末を混ぜた絵具(雲母・きら)を用いて、人物像を引き立たせる工夫をしました。絵師の画力が真っ向から問われるこの形式で、歌麿はあらゆる年代・身分(職業)の女性たちを繊細優美に描き分け、大成功を修めます。
以降、美人画の大家として世に認められた歌麿は、蔦屋以外の版元からも美人画を出版するようになります。しかし歌麿の美人画の妙は、版元の的確なディレクションの下、一流の彫師・摺師の技術が揃って初めて実現するもの。これまで二人三脚で歩んできた蔦重と同じように、歌麿の能力を引き出せる版元ばかりではありませんでした。やがて歌麿は濫作に陥り、作品の質は次第に低下していった、というのが今日一般的に言われている歌麿の評価です。
*喜多川歌麿の生涯については、こちらの記事もあわせてご覧ください。
ファッションアイコンからセクシーアイコンまで江戸の美人はお任せあれ! 浮世絵師・喜多川歌麿ってどんな人?(「北斎今昔」編集部/2021.03.18)
あまりにも大胆な写楽の売り出し
上記に見たように、蔦重は歌麿の才能を開花させるために、非常に地道で入念な準備をしてきました。蔦屋の経営自体もまた、石橋を叩いて渡るような慎重さと堅実さが特徴であり、そうであればこそ、寛政6年の写楽の登場は、あらゆる人の意表を突くものでした。
寛政6年5月、それまで誰も名前を聞いたことのない、東洲斎写楽という絵師が、蔦屋から28枚の役者絵を一挙にリリースします。しかもその28枚の役者絵は、すべて背景が黒雲母摺りの大首絵という、歌麿の美人画をはるかに上回る特別仕様だったのです。これは無名の新人のデビューとしては、あまりにもハイリスクな出版です。
以後、写楽は10か月ほどのあいだに140点余の作品を蔦屋から発表し、忽然と姿を消してしまいます。写実性を追究した斬新な人物描写が人々に受け入れられなかったため、と言われていますが、これまでヒット作のために周到な布石を打ってきた蔦重のプロデュースとしては、ずいぶんと不可解な点が多いと思いませんか? 写楽は「謎の絵師」と言われていますが、なぜ蔦重が、この写楽プロジェクトに着手したのか(どんな勝算、あるいはメリットがあったのか)、という点はとても重要な考察ポイントです。
*東洲斎写楽の作品と活動については、こちらの記事もあわせてご覧ください。
浮世絵史上最大のミステリー!謎の絵師・東洲斎写楽ってどんな人?(「北斎今昔」編集部/2021.03.23)
ヒットメーカー・蔦重は要注意人物!?
次々に話題作を打ち出し、着々と事業を拡大してきた蔦重ですが、いくつもの障害を乗り越えなければなりませんでした。天明7(1787)年に松平定信が老中に就任して以降、戯作や浮世絵は、風紀を乱すとの理由から表現を規制されるようになります。いわゆる寛政の改革の始まりです。
寛政3(1791)年には、蔦屋が刊行した山東京伝の洒落本3冊も取締りの対象となり、著者の京伝は手鎖50日、蔦重は身代半減(財産の半分を没収。※ 財産ではなく、年収(身上)の半分だったと見る説も。)という処罰を受けることになります。人気絶頂の京伝と蔦重の処罰は、ほぼ世間への見せしめに近く、江戸の出版界は一挙に自粛ムードへと流れました。
こうした中で、蔦重は先に挙げたように、歌麿の美人画でヒットを飛ばし、写楽を華々しくデビューさせるのです。もはやそこには、算盤勘定だけでない、時代の逆風に抗う蔦重の信念のようなものすら感じます。そして、当局はまるで蔦屋の成功を追いかけるかのように、次々と禁令を出します。個人名の表記の禁止、美人大首絵の禁止……。それだけ蔦重は、影響力のある商品を手掛けていたということでしょう。
寛政9(1797)年、江戸のヒットメーカーであった蔦屋重三郎は、当時「江戸わずらい」と呼ばれた脚気によって47歳の若さで亡くなります。本稿でご紹介したのは、彼の功績のほんの一部に過ぎず、数多の文化人と幅広く交流し、次々と新しいアイディアを実践しました。
なお、蔦重亡きあとも当局の取締りは続き、さまざまな規制の目をかいくぐってきた歌麿も、文化元(1804)年に発表した「絵本太閤記」関連の錦絵によって処罰(一説に3日間の入牢と手鎖50日)を受け、その二年後の文化3年にこの世を去りました。歌麿、写楽らが活躍した天明・寛政期は、現在「浮世絵の黄金期」として高く評価されています。そしてその中心にいたのは、蔦屋重三郎というひとりの版元でした。
文・「北斎今昔」編集部
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