歌麿と遊郭に潜入! 浮世絵で見る吉原の一日
江戸時代、幕府公認の色街として誕生した吉原遊廓。ここでは長い歴史の中で、多くの女性たちが非人道的な扱いを受け、理不尽な売買春が繰り返されてきました。しかし一方では、年間を通じて花見や仮装行列といった様々な催しが企画され、当代の文化人たちが身分を越えて集い、最先端のファッションが生まれる、老若男女が注目する文化の発信地でもありました。人々の「行ってみたい」「見てみたい」という好奇心に応えたのが浮世絵。今回は、遊女たちの一日を描いた歌麿の浮世絵シリーズ「青楼十二時」をご紹介します。
「青楼の画家」が描く、吉原遊郭の一日
吉原遊郭に生まれ育ち、浮世絵の黄金期と呼ばれる一時代を築き上げた版元・蔦屋重三郎(1750-97)。彼の下で、美人画の名手としての才能を開花させた浮世絵師が、喜多川歌麿(1753?-1806)です。吉原を活動拠点に、蔦重と歌麿は遊女たちを描いた数々の浮世絵の名作を世に送り出していきました。のちに「青楼の画家」と称されるほど、歌麿はいきいきと魅力的な遊女の姿を描きました。
現代の私たちが、アイドルのオフショット(という設定)にときめき、業界の裏側に迫る密着取材に興味をそそられるように、江戸時代の人々も、話題の遊女たちの素顔や吉原遊廓の日常をのぞいてみたいと思ったことでしょう。こうした人々の好奇心に応じるように、蔦屋から出版されたのが歌麿の「青楼十二時(せいろうじゅうにとき)」です。
江戸時代は、一日の時刻を十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)で表しました。「青楼十二時」は「子(ね)の刻」から「亥(い)の刻」までの12図のシリーズです。作品を見る前に、十二支を用いた江戸時代の時刻の表現について、簡単にご説明しておきましょう。
真夜中午前0時の「子の刻」から約2時間ごとに「丑(うし)の刻」「寅(とら)の刻」……と一日で干支を一周します。現在私たちが昼の12時を正午と呼び、その前後を午前/午後と呼ぶのは、昼の12時が7番目の「午(うま)の刻」だからです。午の刻は11:00〜13:00の約2時間で、さらに一刻を四つに分け、「午一つ」「午二つ」などと呼ぶこともありました。
怪談話でお馴染みの「草木も眠る丑三つ時」とは、おおよそ夜中の02:00〜02:30ということになります。時代劇などで「つい半刻(はんとき)ほど前に……」というようなセリフが出てきますが、一刻(約2時間)の半分なので「約1時間ほど前」ということになります。ただし、江戸時代の時刻は、日の出/日の入りを基準に昼夜をそれぞれ6分割したため、夏場の昼の一刻は長く、冬場の昼の一刻は短くなりました。
子の刻(23:00〜01:00)
それでは早速、歌麿の「青楼十二時」を「子の刻」から見ていきましょう。「子の刻」は真夜中、深夜0時を中心とした前後約1時間です。遊女が帯を結んでいます。おそらく床着に着替えているところでしょう。隣の遊女は打ち掛けをたたんでいます。吉原の街の営業終了。これを「引け」と呼びました。この「引け」の時刻は、時代が下るとさらに深夜帯にずれ込んでいったようです。
丑の刻(01:00〜03:00)
夜中の午前2時頃、目が覚めてお手洗いに行くのでしょうか。電灯のない時代なので、遊女は手元に小さな火を灯しています。睡魔と戦いつつ、暗闇の中、足先で草履を探しているような細かい仕草の描写は歌麿ならでは。ふだん客の前では見せない遊女の素の表情に、この浮世絵を見た人々は親近感を覚えたのかも知れません。
寅の刻(03:00〜05:00)
まだ辺りは暗い時間帯ですが、二人の遊女がおしゃべりをしています。一人は長い花魁煙管(おいらんぎせる)で一服。右側の火鉢の前の遊女は、お客に何か温かいものを出してあげるのかも知れません。吉原遊郭(新吉原)は、浅草寺の裏、江戸の外れにありました。未明に起き出して吉原を後にする客もいたことでしょう。「そうそう、昨夜のお客さんがね……」そんな内緒話が聞こえてきそうです。
卯の刻(05:00〜07:00)
夜が明け、泊まりの客を送り出す遊女。客に着せようとしている羽織の裏には、達磨の絵が描かれています。達磨は指をくわえてちょっと物足りなさそう。はたしてこの達磨は、遊女と客とどちらの心境を表しているのでしょうか。ちなみに、このように着物の裏地の部分に派手な意匠を凝らしたものを「裏勝り」と呼びます。スタイリッシュな三本縞の羽織の裏に、豪快な達磨の描絵(かきえ)。遊女の視線の先にいるのは、きっと遊びの作法を心得た粋人なのでしょう。一夜を共に過ごした男女の別れを「後朝(きぬぎぬ)の別れ」と呼びます。後朝から始まる吉原の一日。浅草寺の鐘の音が聞こえてきます。
辰の刻(07:00〜09:00)
客がひと通り帰って、ようやく体を休める遊女たち。どこかほっとした表情です。とは言え、また昼の営業が始まるので、ここでは仮眠がせいぜい。子の刻から辰の刻まで、歌麿は熟睡する遊女の姿を描いていません。寝顔では美人画(商品)として成立しない、ということもあるのでしょうが、夜通し客がいれば、やはり十分な休息を取るのは難しかったでしょう。吉原では、多くの10〜20代の女性(吉原の遊女の年齢の上限は27歳)が、こうした不規則な生活リズムの中で働いていました。
巳の刻(09:00〜11:00)
吉原遊廓は昼の営業(昼見世)もあります。この時間になると、遊女たちは髪結いに髪を結ってもらい、入浴をして食事をし、身支度をします。描かれているのは湯上りの遊女。お茶を差し出しているのは、見習い遊女である「新造(しんぞ)」でしょう。妓楼には他に「禿(かむろ)」と言って、遊女候補の少女たちがおり、遊女たちの身の回りの雑務を手伝っていました。浮世絵にはよく、遊女と共にこのお付きの禿の姿と名前も描き込まれます。
午の刻(11:00〜13:00)
吉原の昼見世は、夜に比べれば客足も少なく、比較的のんびりしたものだったようです。中央の煙管を持った遊女はおそらく「花魁(おいらん)」、襷掛けの遊女は新造でしょう。誰かから手紙が届いたようで、二人で覗き込んでいます。花魁が何か話していますね。そんな二人にはお構いなしで、嬉しそうに鏡を眺める禿。新造が櫛を手にしているので、禿の髪を結ってあげたのかも知れません。女性のちょっとした表情や仕草、わずかな小道具で、画面の中にストーリーを織り込む歌麿の手腕が見事に発揮されています。
未の刻(13:00〜15:00)
「未の刻」に描かれた遊女たちは、だいぶリラックスモード。画面左端の冊子の上に見えているのは筮竹(ぜいちく)で、遊女の向かいには、易者(占い師)が座っているのでしょう。隣の新造が禿の手相を見て占いごっこに興じています。やや前のめり気味で占い結果を聞いている遊女の姿がなんとも微笑ましいですね。この時間帯に、小間物屋や貸本屋といった行商が妓楼にやって来ていたようです。
申の刻(15:00〜17:00)
昼見世が終わると、いよいよ夜の営業(夜見世)の準備です。「申の刻」では、遊女たち(赤い着物の遊女の後ろに、びらびらかんざしを挿した禿の頭が見えています)が揃って出かける模様。引手茶屋で待っている花魁の客を迎えに行くのでしょう。花魁が客を出迎えに行く往復路が、いわゆる「花魁道中」。華やかな遊女たちがしゃなりしゃなりと遊郭の通りを練り歩く様は、人々の目を釘付けにしました。
酉の刻(17:00〜19:00)
午後6時頃を「暮れ六ツ」と呼び、吉原の夜見世が始まる時刻です。「暮れ六ツ」には、各妓楼で三味線が鳴らされ、提灯に火が灯されます。歌麿も、立派な箱提灯の準備をしている様子を描いていますね。ちなみに、頭の上に蝶々が羽を広げたような遊女の髪型は、兵庫髷(ひょうごわげ)の一種。日本髪は時代を通じて非常に多くの種類が存在しますが、吉原の遊女たちはさまざまなアレンジを加え、そのバリエーションをさらに広げていきました。
戌の刻(19:00〜21:00)
遊女が長い巻紙に手紙を書いています。今晩はお客がつかなかったのでしょうか。遊女たちは吉原の外に出ることを許されず、お客を待つほかありません。そのため、手紙はお客の心を繋ぎ止める重要な営業ツールでした。白々しい愛の言葉を書き連ねても、苦境を露骨に訴えても、相手に引かれてしまいます。とても難しいですね。この遊女は、禿と何やら作戦を練っているようです。
亥の刻(21:00〜23:00)
夜も更け、禿が遊女の隣でうつらうつらと舟を漕いでいます。吉原では、客が遊女と二人きりになるまでに、なるべくお金を落とさせる仕組みになっていました。遊女や妓楼のランクによって、遊び方のシステムや予算は異なりましたが、相手が最高位の花魁となると、相応の手順と費用を要しました。宴席を開いて羽振り良く振る舞い、詩歌や音曲、書画などの教養を披露し、一夜限りの殿様気分を味わうのです。客が殿様なら、花魁はお姫様です。煙管片手に盃を差し出す花魁の姿は堂々としています。
夢見る装置としての吉原、浮世絵
蔦屋が版元として活動を始めた頃、吉原は各地に出来た色街に押され、往時の賑わいを失いつつありました。優美な遊女たちを描いた歌麿の美人画は、吉原ブランドの再興にも大きな役割を果たしたと考えられています。この浮世絵の宣伝広告的な役割を考えたとき、ここに描かれているのは、あくまで消費者目線で脚色された、遊郭の華やかな一面に過ぎません。「青楼十二時」の黄に金の砂子をまいたような背景の演出は、遊女たちの姿を輝かせると共に、本来周囲にあるはずの生活感、都合の悪い現実の一切を排除しています。
それでも、この作品が時代を越えて私たちの目に魅力的に映るのは、歌麿の絵筆が、過酷な環境にめげず、矜持をもって生きた女性たちの強さを、しっかりと写し取っているからではないでしょうか。
文・「北斎今昔」編集部
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