北斎の名作への8ステップ! GIFアニメで見る「神奈川沖浪裏」のつくり方

北斎の名作への8ステップ! GIFアニメで見る「神奈川沖浪裏」のつくり方

江戸時代後期の浮世絵師・葛飾北斎の代表作「富嶽三十六景」の一図「神奈川沖浪裏」。「The Great Wave」の名で世界的に知られる名画ですが、この作品が木版画であることは意外と認識されていません。この作品は、当時人気を博して、何千枚と制作され、販売されたと考えられています。では、北斎が木を彫ったり、和紙に何千枚も摺ったのでしょうか? いえいえ、実は北斎が描いたのは版画のための下絵だけ。これをもとに版画を制作したのは、彫師(ほりし)・摺師(すりし)と呼ばれるプロの職人たちでした。

「神奈川沖浪裏」の作者≠葛飾北斎?

アダチ版復刻浮世絵 葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」(提供:アダチ伝統木版画技術保存財団)

名画「神奈川沖浪裏」を描いたのは、まぎれもなく、浮世絵師・葛飾北斎(かつしかほくさい・1760-1849)です。でも木版画である「神奈川沖浪裏」の「作者」はというと、より厳密には、葛飾北斎と当時の名もなき職人たちだったと言うべきかもしれません。浮世絵版画は、浮世絵師と彫師、摺師の共同制作によって生まれます。

葛飾北斎が描いたのは、おそらくこのようなモノクロの下絵。(提供:アダチ伝統木版画技術保存財団)

浮世絵版画の制作過程において、葛飾北斎が担当したのは、版画の下絵の作画だけ。名画「神奈川沖浪裏」も同じです。北斎が描いた下絵をもとに、彫師が複数の版木を彫り、摺師がその版木を用いて、和紙に何百枚、何千枚と摺りました。基本的に、浮世絵師が描くのはモノクロ原稿で、フルカラーの完成予想図は絵師の頭の中にしかありません。一番最初の版木ができた段階で浮世絵師が作品の色指定を行い、彫師・摺師が作業を進めていきます。

絵師・彫師・摺師の三者が、作品のイメージを共有し、そこに向かって互いの技術を引き立て合うことで、名作は生まれます。浮世絵版画はまさに、江戸時代の職人たちのチームワークの結晶なんです。

北斎の名画の誕生を支えたのは、名もなき職人たち。(提供:アダチ版画研究所)

では、北斎が最初に描いた「神奈川沖浪裏」の原画はどこにいってしまったのでしょうか? 実は、彫師が最初の版木を彫るときに、絵師の下絵を板に貼り付けて、板と一緒に彫ってしまうのです。ですから、北斎の浮世絵版画のいわゆる「直筆原稿」は、その版画作品が完成している限り、この世に存在しないことになります。「神奈川沖浪裏」の原画は、残念ながら木屑とともに消えてしまっています。

真っ白な和紙の上に名作が生まれるまでの8ステップ

目の覚めるような濃淡の藍色が印象的な「神奈川沖浪裏」。画面には、いろんな色が使用されていますが、どうすれば木版画でこんな作品が完成するのでしょうか。本稿では、江戸時代から続く木版画の技術を継承する彫師・摺師を擁する工房・アダチ版画研究所の復刻版「神奈川沖浪裏」をもとに、北斎の名画の摺(すり)の工程を順に追っていきたいと思います。

まずはこちらのGIFアニメで、何色もの色を摺り重ねていく浮世絵の制作工程のイメージをご確認ください。(ループ再生されます。)

(提供:アダチ伝統木版画技術保存財団)

濃い藍色の輪郭線の中に、順々に黄色、灰色、水色……と色が重なっていく様子をご覧いただけたでしょうか。これが「神奈川沖浪裏」の摺の工程です。

① 輪郭線(濃い藍色)
② 船体の色(黄土色っぽい黄色)
③ 船体の色(ねずみ色)
④ 画面上部の空の色(とき色)
⑤ 富士山の後ろの空の色(薄いねずみ色のグラデーション)
⑥ 富士山の後ろの空の色(濃いねずみ色のグラデーション)
⑦ 波の色(水色)
⑧ 波の色(明るい藍色)

上記の通り、「神奈川沖浪裏」は8回の摺の工程を経て完成します。静止画でもう一度順を追って見ていきましよう。

(提供:アダチ伝統木版画技術保存財団)

① 輪郭線(濃い藍色)
浮世絵版画の摺り方にマニュアルなどはありません。摺る順序は職人や状況によって違ったと思われますが、一番最初に輪郭線の版を摺り、その線からずれないように色の部分を擦り重ねていくのが大原則です。

(提供:アダチ伝統木版画技術保存財団)

② 船体の色(黄土色っぽい黄色)
基本的には、薄い色→濃い色、面積の小さい部分→面積の大きい部分という順序で摺っていきます。

(提供:アダチ伝統木版画技術保存財団)

③ 船体の色(ねずみ色)
続いて、船体のねずみ色。ところで、なぜぴったりと輪郭線からずれずに色を摺り重ねられるのでしょうか。これは、版木に和紙を置く位置合わせの目印を付けているから。この目印を「見当(けんとう)」と呼びます。「見当をつける」「見当違い」という言葉の語源です。

でももちろん、見当に和紙を合わせれば、誰でも簡単に色を摺り重ねられる、というわけではありません。見当を合わせられるようになるには、相応の修行が必要です。

(提供:アダチ伝統木版画技術保存財団)

④ 画面上部の空の色(とき色)
続いて、空の広い面を摺ります。面積の広い部分を均一にムラなく摺るのも、摺師の技術です。空の色が入ると、一気に作品の雰囲気が変わりますね。

(提供:アダチ伝統木版画技術保存財団)

⑤ 富士山の後ろの空の色(薄いねずみ色のグラデーション)
浮世絵版画では、このグラデーションの表現を「ぼかし」と呼びます。基本的に版木の表面は平らで、摺師が版木の上の絵具と水分の量を調整して、グラデーションの層をつくり、これを和紙に摺るのです。これは幅の広いぼかし。

(提供:アダチ伝統木版画技術保存財団)

⑥ 富士山の後ろの空の色(濃いねずみ色のグラデーション)
同じ部分に今度は幅の狭い「ぼかし」をかけます。摺師は、グラデーションの幅や濃淡を自在にコントロールできます。冠雪した富士山の姿が、くっきり浮かび上がってきました。

(提供:アダチ伝統木版画技術保存財団)

⑦ 波の色(水色)
浮世絵版画は基本的に、顔料を水で溶いて使用し、定着剤となるものは混ぜません。摺師の技術によって、和紙の繊維の中に、顔料の粒子をきめ込むのです。だから、絵具本来の鮮やかな発色が楽しめます。顔料を油で溶きキャンバスに定着させる油彩画が一般的だった西洋の人々が、浮世絵の美しさを見て驚いたのも当然ですね。

でも実は、この北斎の作品の波の部分に使用している青い絵具は、ヨーロッパ発。ベルリンで発見された「プルシアンブルー」の絵具なんです。「富嶽三十六景」は、舶来の新素材を使用した話題の企画でした。そして、のちに木版画というかたちで逆輸入した青の絵具の色鮮やかさを、ヨーロッパの人々は絶賛することになります。それでは、いよいよ最後の藍色に参りましょう。

(提供:アダチ伝統木版画技術保存財団)

⑧ 波の色(明るい藍色)
最後に、明るい藍色を摺って完成です。この8工程の摺の作業を、摺師はスピーディーかつ正確に繰り返し、北斎の名作を広く世に送り出していったのです。

浮世絵から知る、ニッポンの文化力・技術力

江戸の町では、この色鮮やかで迫力ある作品が、絵草紙屋の店頭で手頃な価格で販売されていました。庶民の誰もが、こうした精巧で美しい多色摺の木版画を気軽に買うことができた、江戸時代の日本。西洋の人々が浮世絵に驚き魅了されたのは、単に美術品としての美しさだけでなく、そこに注ぎ込まれた技術力と、日常の中に美を求める日本の文化水準の高さへの関心でもあったと思います。

浮世絵版画の成り立ちや制作技術を知れば知るほど、日本の文化が誇らしくなっては来ないでしょうか。もし今後、浮世絵を見る機会があったときは、ぜひその表現を支えた、名もなき職人たちの仕事にも思いを馳せてみてください。そして、この世界に誇る木版画の技術は、明治・大正・昭和・平成と途切れることなく、現在にまで脈々と受け継がれています。もし本稿をご覧いただいて興味を持たれた方は、ぜひ下記の記事もご覧ください。「北斎今昔」では、今後もさまざまなかたちで、浮世絵の「今」をお伝えしていきます。

【楽しむ】徹底解剖!世界の名画「神奈川沖浪裏」を完成させた浮世絵の技!
【買う】アダチ版復刻浮世絵で楽しむ"The Great Wave" 江戸の人々を魅了した鮮やかな色合いを!  

文・「北斎今昔」編集部