クリスティーズジャパン社長が語る「浮世絵とオークション」
2024年8月10日、北斎の代表作をテーマにした企画展〈数字でわかる 北斎「神奈川沖浪裏」の世界的評価とその魅力〉を開催中のアダチ伝統木版画技術保存財団 常設展示場(東京都新宿区)で、クリスティーズジャパンの代表取締役社長・山口桂氏の講演会が開催されました。「浮世絵とオークション -世界の中の浮世絵 北斎を中心に-」と題された講演内容の一部をご紹介します。
国際的なオークションでも日本美術は人気
世界二大オークションハウスのひとつ、クリスティーズの創業は、なんと1766年! その頃の日本はというと、江戸時代。錦絵(多色摺木版画)の技術が完成したのが前年の1765年と言われていますから、その歴史の長さに驚きです。この由緒あるオークションハウスで、長年日本の美術品を扱い、数々の伝説のセールを手掛け、現在クリスティーズジャパンの代表取締役を務められているのが、今回のイベントの講師・山口桂氏です。
クリスティーズが取り扱う品物の分野は、宝飾品やお酒、さらには恐竜の化石まで、80種類以上の多岐に渡るそう。その中でも、美術品はオークションの花形。多くの人にとってはミステリアス(?)な「芸術の価値」が、具体的な価格として提示され、ときに驚くべき落札価格を記録するのは、誰にとっても興味深いですよね。事実、美術品の高額落札は、新聞やテレビのニュースでも取り上げられることがあります。
現在は、日本国内ではクリスティーズのオークションは開催されていないものの、これまでに数多くの日本の美術品がオークションに登場し話題をさらってきました。今年の9月にも、ニューヨークで、選りすぐりの日韓の美術品を集めたオークションが開催されます。
急上昇した北斎「神奈川沖浪裏」の人気
さて、そんな日本美術の中でも、人気のジャンルの一つが浮世絵。山口氏によれば、近年は北斎や広重の風景画が人気で、次いで国芳の三枚続の武者絵などが注目されているそうです。確かに、昨今の浮世絵の展覧会や出版物でも、彼らの作品は大きく取り上げられていますよね。
名もなき江戸の庶民たちが手にしていた浮世絵が、今や車や家が買える値段で世界のオークションを賑わしているのですから、「芸術の価値」というのは本当に面白いものです。中でも、この数年で注目すべき値動きを見せているのが、北斎の作品、特に新千円札のデザインにも採用された「神奈川沖浪裏」だと山口氏は言います。山口氏がクリスティーズに入社した30年ほど前、北斎の人気作といえば赤富士こと「凱風快晴」であり、「神奈川沖浪裏」はそれに次ぐ存在だったそう。会場の参加者も山口氏の言葉に頷いていました。
ところが2017年のオークションで、「神奈川沖浪裏」に予想をはるかに上回る高値が付いて話題となり、以降同作の落札価格はどんどん最高額を更新していきました。そしてついに、2023年3月のオークションで276万ドル(約3.7億円)を記録します。山口氏は、この30年ほどのオークションでの「神奈川沖浪裏」の落札価格の推移を、わかりやすくグラフで示してくださいました。
なるほど振り返ってみれば、新紙幣やパスポートのデザインは言うに及ばず、広告やアパレルグッズ、食品パッケージ、そして絵文字に至るまで、2000年代頃から(特にクールジャパン戦略以降)、私たちの生活のさまざまなシーンで、北斎のあの波を目にする機会が増えたように思います。山口氏が表示してくださった折れ線グラフは、そうした北斎の波のイメージの社会への浸透を反映しているようにも見えました。会場で開催中の企画展のタイトル通り、ひとつの時代の動向が「数字でわかる」とても興味深い事例です。
そして山口氏は、北斎の「神奈川沖浪裏」の価格の高騰には、中国人コレクターのオークションへの参入や、美術品の蒐集方針の変化が関与している、と考察されます。近年の富裕層のコレクターは、自分の好きな作家やジャンルの作品を集中して集めるのではなく、幅広い国やジャンルの誰もが知る名品を網羅的に集める方が多いそう。そうであれば、北斎の「神奈川沖浪裏」が、美術コレクターの必須アイテムとなるのも頷けます。
ちょっと特異な浮世絵マーケット事情
山口氏は、美術品の価値を決めるポイントとして、以下の4点を挙げられました。
①その時の市場価格に即した価格
②作品の状態
③来歴
④希少性
この中の③来歴と④希少性について、浮世絵には、他の美術品とは異なる、やや特異な状況があると言います。一体どういうことでしょうか!?
③の来歴とは、どのような人物が所有していたか、といった作品の遍歴のこと。当然、歴史上の有名人などが所有していたりすると、価値は上がります。そして浮世絵においては、特定の目利きたちの元を通過しているかが、価値を左右することがあるのだとか。
すなわち、19世紀末のパリで活躍した美術商の林忠正(1853-1906)、若井兼三郎(1834-1908)、そしてパリの宝石商で日本美術のコレクターだったアンリ・ヴェヴェール(1854-1942)。彼らはあろうことか、自分たちのお眼鏡にかなった作品のオモテ面に、堂々と自身の名前入りのハンコを捺していました! が、今では彼らの印章は名品のお墨付きとして、浮世絵の価値を上げるものとなっているのです。作家以外のサインや印章が作品の中に入って価値が上がる、というのは、浮世絵特有のことだそう。浮世絵の展覧会に行ったら、ぜひ彼らの印を探してみてください。
そして④の希少性。同じ作家の作品であれば、複数点制作される版画より、一点ものの肉筆画の方が価値が高いと見なされるのが一般的です。たとえば、レンブラントの油彩画は、レンブラントの銅版画よりも希少なので、高い値段が付きます。
ところが浮世絵については、版画の方が高価になるケースが多々。一介の町絵師であった浮世絵師たちの肉筆画は、真贋の判断が容易ではないということも一因にありますが、「知る人ぞ知る」一点ものの肉筆浮世絵よりも、「世界中が知っている」浮世絵版画の方が、現代のコレクターの心をくすぐるようです。(※版画と言えども、現存作例が世界で1点しか確認されていない、といったものもあるので「希少性が高い版画」は存在します。)
愛と好奇心に満ちたスペシャリストの眼
山口氏はその後、オークション史に残る浮世絵コレクターやそのコレクションについて紹介。ご自身の思い入れのあるセールとして、麻布美術工芸館の肉筆浮世絵コレクション、林忠正旧蔵の歌麿の美人画なども挙げられていました。
なお、山口氏自身も浮世絵が好きで、中でも「明治の写楽」と呼ばれた明治の浮世絵師・豊原国周(1835-1900)がお好きなのだそう。この日、山口氏はご自身が所蔵する役者絵の一部を参加者にスライドで見せてくださいました。劇聖とも称された9代目市川團十郎(1838-1903)の役者絵を「私の宝物」と話す横顔は、とても嬉しそう。
審美眼の磨き方に関するお話は、山口氏のご著書に詳しいのですが、短い講演時間の中でも、氏がさまざまな人物や作品との出会いを楽しみながら、常にあらゆる経験から積極的に学び、スペシャリストとしての眼にさらに磨きをかけていらっしゃる様子が伝わってきました。
講演の最後に、今日これほどまでに浮世絵が世界で評価されている理由について、山口氏は「浮世絵が他に類を見ない芸術である」点を挙げられました。日本美術の大半が大陸の文化を手本とし、また古今東西の芸術が王侯貴族の庇護の下に発展してきたのに対し、浮世絵版画は庶民が文化の担い手となり、鎖国下において技術的にも表現としても独自の発達を見せました。こうして生まれた表現の斬新さやポップアート的な親しみやすさが、現代においても多くの人を魅了するのだと山口氏は分析します。
そして他の日本美術のジャンルに比べて、浮世絵の市場価格が長期的に見て安定している(=暴落がない)のも、ジャポニスム以来の国際的評価と根強い人気を物語っていると言います。浮世絵は、廉価なものでは数万円から入手可能で、こうした価格帯の幅の広さもファン層の厚みにつながっているのだそうです。これまで主に浮世絵を鑑賞の対象とされていた方は、この機会にぜひ、所有の可能性も視野に入れてみては。目の前の浮世絵の「経済的価値」を意識したとき、その見方はちょっと変わってくるかも知れません。
世界が評価する浮世絵文化の発展が、大衆の購買欲に支えられていたものであるならば、「芸術の価値」を考えることは、実はとても重要なことではないか、と思った講演会でした。
山口桂(やまぐち・かつら) 1963年東京生まれ。立教大学文学部卒。広告会社勤務を経て、92年クリスティーズに入社。日本・東洋美術のスペシャリストとして活動する。19年間、ニューヨーク等で海外勤務をし、2008年の伝運慶の仏像セール、17年藤田美術館コレクションセール、19年伊藤若冲作品で有名なプライス・コレクション190点の出光美術館へのプライヴェートセールなど、多くの実績を残す。18年からクリスティーズジャパン社長を務める。国際浮世絵学会理事、アダチ伝統木版画技術保存財団理事、日本陶磁協会、米国日本美術協会(JASA)。著書に『美意識の値段』(集英社新書)、『美意識を磨く』(平凡社新書) など。
取材・文 松崎未來(ライター)
協力 クリスティーズジャパン、アダチ伝統木版画技術保存財団(敬称略)
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