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日本一の山、富士山は2013年「信仰の対象と芸術の源泉」として評価され、世界文化遺産に登録されました。登録から10年、本連載「現代の匠の技で辿る 浮世絵の富士山」は、伝統の技術で現代の職人が復刻した浮世絵版画を通じて、文化遺産・富士山の魅力を改めて眺めます。
浮世絵の「青の時代」がやってきた
前回のコラムで、北斎の「富嶽三十六景」は輪郭線を藍色で摺っていると書きました。なぜ、わざわざ藍色にしたのでしょうか。その背景には、西欧で新たに開発された藍色の絵具の輸入がありました。当時「ベロ藍」と呼ばれたその絵具は、それまで日本で用いられていた藍色の絵具よりも、鮮明な発色をし、褪色に強いものでした。現在一般に「プルシャンブルー」と呼ばれる色で、「ベロ藍」の「ベロ」は発祥の地・ドイツ(プロイセン)のベルリンに由来しています。
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ベロ藍は18世紀半ばに日本に持ち込まれていましたが、高価な舶来の絵具を使用することができたのは、まだごく一部の人でした。やがてベロ藍の量産が可能となり、中国経由で安価に輸入されたベロ藍は、1820年代の終わりに庶民の娯楽である浮世絵版画の制作にも用いられるようになります。このヨーロッパ発の新色を多用し、青のモノトーンで摺った浮世絵が「藍摺絵(あいずりえ)」です。「富嶽三十六景」は、こうした藍摺絵の流行を踏まえて企画されたシリーズでした。
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そのことがよく分かるのが、版本の巻末に掲載された「富嶽三十六景」の出版予告です。1831年に刊行されたことが分かっている柳亭種彦作の『正本製(しょうほんじたて)』十二編の巻末には「冨嶽三十六景 前北斎為一翁画 藍摺一枚、一枚に一景づつ追々出板」とあります。つまりこの広告掲載の時点で「富嶽三十六景」は藍摺絵のシリーズとして、順次刊行していく予定だったことがわかります。
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さらに広告には、各地から見た富士山の姿を描くシリーズであることが記され、その一例として「七里ヶ浜」や「佃島」といった具体的な地名が挙げられています。実際に「富嶽三十六景」の「七里ヶ浜」や「佃島」を見てみましょう。予告通り、藍摺絵と呼ぶべき作品となっています。ところが、こうした藍摺絵はシリーズ全46図のうち10図ほどにとどまっています。売れ行きが芳しくなく、藍摺という色の制限を途中から緩和していったと考えられています。
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「富嶽三十六景」の藍摺絵の中の傑作とされる「甲州石班沢」は、その経緯を伝える一図です。現存する作品には、藍のモノトーンで摺られた作品と、藍色の他に黄色や朱色、緑色などが用いられているカラフルな作品とがあります。(参照:文化遺産オンライン 冨嶽三十六景《甲州石班澤》 東京富士美術館蔵)おそらく最初に藍摺絵として出版し、後から青系統以外の色を加えて増刷したものと言われています。
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ただ最初に「藍摺」と銘打ってしまったからでしょうか、36図を刊行するまで、引き続き輪郭線は藍色で摺られました。
新しい藍が可能にした風景表現
さて、輪郭線を藍色で摺ることで「富嶽三十六景」はどのような効果を得ているのでしょうか。同じイラストの輪郭線を藍色と黒色にして並べてみました。
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いかがでしょう。輪郭線が青い富士山の方が遠くに、つまり画面の空間に奥行きがあるように感じられないでしょうか。日本一の高さを誇る富士山。その姿は富士山から離れた各地からも見ることができます。藍色の線は、富士山と絵師の視点との間にある広大な空間の演出に効果を発揮していると言えるでしょう。
「富嶽三十六景」の発表以前、長らく版本のモノクロ挿絵の仕事に携わり、ドラマティックな物語の展開をすべて線描で表現してきた北斎。その力強い線と細部に至る描き込みは、ともすれば画面の圧迫感につながりかねません。黒い線は殊更、描かれたものの存在感を主張します。
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藍色の輪郭線は、そんな北斎のアクの強い描写を和らげ、風景の遠近感を出すことに成功していると言えるでしょう。藍色の線のマジックを、おそらく北斎自身も「富嶽三十六景」によって実感したのではないでしょうか。同じ版元(西村永寿堂)から出版した北斎の「諸国瀧廻り」という風景画のシリーズでも、輪郭線には墨ではなく藍色が用いられています。
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「赤富士」も最初は青かった?
さて、ここから先は個人的な推論になりますが、「富嶽三十六景」の青の世界を楽しむための小咄としてお楽しみください。「富嶽三十六景」の「藍摺」という前触れに対して、シリーズ中、あまりにも大胆な方向転換をしているのが、前回のコラムでも触れた「赤富士」こと「凱風快晴」と、「赤富士」と構図のよく似た「黒富士」こと「山下白雨」です。
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「凱風快晴」の「凱風」は南風、「山下白雨」の「白雨」はにわか雨のことです。他の作品と異なり、作品名には地名の代わりに、風と雷雨という気象情報が盛り込まれています。なぜ風と雷なのでしょうか。雪化粧や虹の方が、よほど絵になりそうです。
一つ思い浮かぶのは、中国古来の占いである「八卦」です。八卦の思想では、八つの卦のうち「巽(=風)」と「震(=雷)」の二つが青色と結びつけられています。当初、青をテーマカラーとしたシリーズであった「富嶽三十六景」の中で、北斎は富士山を取り巻く「風」と「雷」を表現しようと思ったのではないでしょうか。つまり版下絵を描いた段階では、北斎の頭には真っ青な「凱風快晴」と群青の「山下白雨」の構想があった可能性があります。
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北斎の晩年の作品の落款(サイン)部分には、富士山と八卦の記号(「兌」あるいは「巽」)を組み合わせたような判子が捺されていることからも、北斎が何らかの形で八卦の思想に興味を持っていたことは十分に考えられます。単にトレンドカラーだったから、というだけでなく、北斎は藍(青)色を、コンセプチュアルに作品に取り入れようとしていたと考えるのは邪推でしょうか。
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実は世界に数点ですが、「凱風快晴」の摩耗した版木を藍のモノトーンで摺った作品が確認されています。浮世絵にはまだまだわからない謎や不思議が詰まっています。「富嶽三十六景」の一図一図に、北斎がどんな思いを込めて描いていたのか、想像を膨らませてみるのも楽しいですね。
現代の匠の技で辿る 浮世絵の富士山②
とことん藍色にこだわった出版企画だった「富嶽三十六景」。途中の路線変更も含め、改めて浮世絵版画の面白さを教えてくれるシリーズです。様々な色のバージョンが存在する「甲州石班沢」ですが、やはり当初の藍摺絵がクール! アダチ版画研究所の復刻版で、北斎のこだわりの藍色をぜひご堪能ください。
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[画寸法]25.2 × 38.6 cm
[用 紙]越前生漉奉書
[購入方法]アダチ版画研究所 目白ショールーム、およびオンラインストアより
文・松崎未來(ライター)
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