新時代をサバイブした浮世絵師たち 三菱一号館美術館「芳幾・芳年」展レポート

新時代をサバイブした浮世絵師たち 三菱一号館美術館「芳幾・芳年」展レポート

今春より、設備入替および建物メンテナンスのため長期休館に入る三菱一号館美術館。休館前最後の展覧会「芳幾・芳年―国芳門下の2大ライバル」が2月25日より始まりました。幕末から明治期に活躍した二人の浮世絵師、落合芳幾と月岡芳年にスポットを当てた展覧会です。

器用な芳幾、覇気に富んだ芳年

幕末から明治期にかけて活躍した浮世絵師、落合芳幾(1833-1904)と月岡芳年(1839-92)はともに歌川国芳(1797-1861)の元で学んだ兄弟弟子です。6歳違いですが、入門は1年しか違いません。芳年は、国芳の長女と同い年。息子のような存在だったであろう二人の弟子について、このような国芳の評が伝えられています。

芳幾は器用に任せて筆を走らせば、画に覇気なく熱血なし、芳年は覇気に富めども不器用なり、芳幾にして芳年の半分覇気あらんか、今の浮世絵師中その右に出る者なからんと

国芳は桜田門外の変(1860年)の翌年に亡くなっており、弟子たちがやがて迎える激動の時代を知りません。にもかかわらず弟子二人のその後の画業を予見していたかのようなこの言葉に、展覧会を訪れた方の多くが国芳の慧眼を再認識することと思います。 

展覧会会場には師・国芳の作品も多数並ぶ。

またこの言葉は、国芳が考える「浮世絵師にとって重要な二つの資質」を説いているようにも思えます。トレンドに敏感で、機転が利き、幅広いジャンルを手がけることのできる「器用」さは、浮世絵師に最も求められた能力でしょう。

国芳が亡くなった際、芳幾が描いた死絵。芳幾が国芳門下のトップだったことを物語る。

一方、数多いる絵師の中で頭角を表すには、職人気質のこだわりや譲れない信念、つまりは「覇気」や「熱血」も必要です。そしてそれは、鳴かず飛ばずの20代を過ごし、天保の改革の出版統制を潜り抜け、中風を患ってなお、決して描くことを諦めなかった国芳自らを支え続けたものでもあったと思います。

「器用」な芳幾と「覇気」に富んだ芳年。最後の浮世絵師であり、国芳DNAの継承者。両者の作品を通じて、時代の転換期を、浮世絵師たちがどう乗り越えようとしたのかが見えてきます。

シリアスな描写が目を引く国芳の武者絵「太平記英勇伝」。

浮世絵の火花散る! 本展で実現した夢の対決も

師の国芳が大勢の弟子の中で二人を比較して評したように、芳幾と芳年は誰もが認める国芳門下の双璧であり、ライバルでした。国芳が亡くなる頃、すでに浮世絵師の番付上位にいた芳幾を、20代の芳年はどんどん追い上げ、やがて肩を並べます。いつの時代も人々は「ランキング」と「対決」が大好き。展覧会では、各ジャンルで展開した国芳門下の頂上決戦を見ることができます。

二人の対決は、スタートから過激なスプラッタ描写の対決です。慶応2(1866)年、「英名二十八衆句」というシリーズで二人は競作します。歌舞伎や講談などで知られた刃傷沙汰、殺戮シーンを集めもので、それぞれが14図を担当しました。当時の不穏な社会情勢を受けてか、現在「血みどろ絵」「無惨絵」の代名詞となっているほど、その描写は凄惨です。


凄惨な描写が注目された「英名二十八衆句」。芳幾と芳年が14図ずつ担当した。

おそらく「英名二十八衆句」を見た同時代の人の中には、20年ほど前に国芳が描いた「鏗鏘手練鍛の名刃(さえたてのうちきたえのわざもの)」というシリーズを思い起こした人もいたでしょう。つまり、国芳のリメイク版を高弟二人に競わせるような、血湧き肉躍る企画だったのです。

続く対決は、新聞記事と錦絵が合体した「新聞錦絵」上で展開します。芳幾が「東京日々新聞」の創刊に参画し、明治7(1874)年から新聞錦絵の絵を手がけると、翌年に「郵便報知新聞」も芳年を起用して新聞錦絵を刊行します。

新聞錦絵の刊行はさほど長くは続かなかったのですが、新たなメディア上での芳幾と芳年の対決を人々に印象付けるには十分だったでしょう。当時の新聞本紙は文字が中心のモノクロだったので、凶悪事件や怪奇事件、また珍事件のカラーのイラストレーションは大いに注目を集めました。


「東京日々新聞」(上段)と「郵便報知新聞」(下段)の錦絵新聞。

周囲が赤色の枠で画面の上部に天使が飛んでいるのが「東京日々新聞」、周囲が紫色の枠が「郵便放置新聞」です。扇情的な内容や、けばけばしい赤や紫の色彩は、錦絵の価値や需要が徐々に変容していったことをも物語っています。新聞社同士の競争、そして芳幾・芳年の対決は、マスメディア特有の過剰な描写をさらにエスカレートさせていったと思われます。

そして本展では「武者絵の国芳」と謳われた師を持つ二人の、武者絵対決も用意されています。会場には、芳幾の全100図に及ぶ一大シリーズ「太平記英勇伝」、そして芳年の才能が遺憾なく発揮された「芳年武者无類」33図(※現在確認されている全図)が揃います。この両シリーズを一度にまとめて見られる機会はかなり貴重。

芳幾の「太平記英勇伝」。画面サイズは小さいが、師・国芳の仕事をしっかりと受け継いでいる。

制作時期に十数年の開きがあり、幕末の「武者絵」と近代の「歴史画」という受容の相違を考慮する必要はありますが、芳幾の武者絵が国芳のスタイルを忠実に受け継いでいる(国芳が手がけたシリーズの続編のような位置付け)のに対し、芳年の武者絵には、劇画の嚆矢とも言うべき表現の革新性があると言えるでしょう。

それまでの武者絵のイメージを大きく覆す月岡芳年の「芳年武者无類」。

また本展では、稀少な両者の肉筆画対決まで実現しています。基本的にオーダーメイドだった一点ものの肉筆画。おそらく同時代の人々も、ここまでの点数を揃えた二人の肉筆画対決を目にすることは出来なかったのではないでしょうか。そして特筆すべきは、会場に二人の幽霊画も揃っていること。

そもそも幽霊画というジャンルは公開の機会が少ないです。画面の奥に仄暗い情念がゆらいでいるような芳年の幽霊画の凄みは、ぜひ会場で。ただし怪談会を催す際など、洒落っ気を交えて飾るのに塩梅が良かったのは、芝居などで見慣れた幽霊の姿を描いた芳幾の幽霊画なのではなかったかと思いました。

芳年の幽霊画を眺めていると、見てはならないものを見てしまった気持ちになってくる。

会場には、国芳、芳幾、芳年の作品以外にも、同時代の絵師たちの浮世絵が何点か紹介されています。しかし、会場のその一角に来た途端に、会場に充満していた息詰まるほどの熱量が、ふっと薄らいだように感じる方はきっと多いでしょう。それだけ芳幾、芳年は、当時の浮世絵師の中でも別格の存在なのです。

そしてそれは、錦絵が出版物である以上、二人のアイディアや描画力だけでなく、どれだけの制作予算が投じられていたかということも影響しています。売れる見込みが立てばこそ、版元は制作に腕の良い職人を当てがうことが出来、手数をかけることが出来ます。

月岡芳年の人気シリーズ「月百姿」も紹介。

特に芳年晩年の錦絵に惜しみなく注ぎ込まれた明治の彫師・摺師の技巧の粋は、間近でじっくりご覧ください。そこに垣間見れるのは、欧化政策の逆風に立ち向かう最後の浮世絵師への期待であり、職工たちの意地やプライドではないでしょうか。

浮世絵師として、浮世絵を超えるために

展覧会のキャッチコピーは「浮世絵をこえろ」。展示作品を通じて、芳幾・芳年それぞれが、新しい時代に従来の浮世絵を超えるものを生み出そうと悪戦苦闘したことがひしひしと伝わってきます。と同時に、二人のスタンスはだいぶ異なっていたことも分かりました。

写真の登場も、浮世絵師たちに大きな影響を及ぼした。

浮世絵師という生業を、芳幾は「マスメディアの担い手、エンタメの発信者」としてとらえ、柔軟な発想でさまざまなことに挑戦したのに対し、芳年はあくまで「絵描き」としてとらえ、新しい美術の動向を注視しながら画技を磨いていったように思います。展覧会を一周して、改めて冒頭の国芳の言葉が思い起こされました。

一種の格調をまとった月岡芳年の武者絵。

現代の我々も、公私にわたり大小様々な問題が起こり、誰も正解の分からない問いをいくつも突きつけられ、判断と変化を迫られます。欧化の波に翻弄されながら、それぞれに生きていく術を模索し、明治という新時代をサバイブした二人の作品には、我々個々人が明日に向き合う、ちょっとしたヒントが隠されているようにも思います。そしてそれこそが、「憂き世」を生きる活力を生んだ江戸の「浮世絵」の持つ底力なのではないでしょうか。

講談社「モーニング」で連載中の『警視庁草紙 ―風太郎明治劇場―』とのコラボ企画も展開中。
芳幾・芳年―国芳門下の2大ライバル
会 期:2023年2月25日(土)〜4月9日(日)
時 間:10:00〜18:00(入館は閉館の30分前まで)
金曜日と会期最終週平日、第2水曜日は21:00まで
休館日:3月6日(月)、3月13日(月)、3月20日(月)
会 場:三菱一号館美術館(東京都千代田区丸の内2-6-2)
★北九州市立美術館(福岡)に巡回予定(2023年7月8日〜8月27日)
お問合せ:050-5541-8600(ハローダイヤル)
展覧会特設サイト:https://mimt.jp/ex/yoshiyoshi/

[2023.04.10]主催者提供の広報用画像の使用期限終了に伴い、記事内の画像を差し替えました。

文・撮影 松崎未來(ライター)