広重の名作にまさかのミス!? 亀戸天神の #ナゾすぎる 空の色を考察する

広重の名作にまさかのミス!? 亀戸天神の #ナゾすぎる 空の色を考察する

全国の美術館・博物館の学芸員が、twitter上でお題(ハッシュタグ)に沿った館蔵品を紹介する企画「キュレーターバトル‼︎」。これまでに多くの美術館・博物館が参加し、その一部をまとめたテレビ番組(NHK)も放映されました。

この企画で2022年の1月に出されたお題が「#ナゾすぎる」。全国の美術館・博物館から、不可思議、不可解な作品が続々と寄せられる中、浮世絵専門の美術館、太田記念美術館が紹介したのは、歌川広重の名作「名所江戸百景 亀戸天神境内」。


名物の太鼓橋と藤の花を描いた優雅なこの一図、太鼓橋の下の青色は間違って摺っちゃった色なんだそうです。えぇ!? そんなことってあるのでしょうか??

広重の「亀戸天神境内」には赤い空と青い空がある

実は、広重の「名所江戸百景 亀戸天神境内」には、空が赤い作品(以下、赤空ver.)と、空が青いバージョン(以下、青空ver.)とが存在します。太田記念美術館では、2種類の「亀戸天神境内」を所蔵しています。


2作品を比べてみると、空の色以外にも違う箇所がいくつかあります。赤空ver. は、池の水面や松の木に濃いぼかし(グラデーション)が入っていて、タイトルの方形の中の模様も2色ですね。赤空ver. の方が手間がかかっているので、こちらが初摺だと考えられています。(浮世絵版画は売れ行き好調で増刷をかけるときに、初摺りより手間を省く傾向があります。)

つまり、後に摺った青空ver. で、太鼓橋の下の部分が青く摺られていないのは「修正」と考えられるのです。赤空ver.制作時、なぜこのようなミスが起きたのでしょうか?? この謎に対して、アダチ版画研究所のtwitterアカウントが原因の究明に乗り出しました。


こちらの考察は、twitterのスレッドでもご覧いただけるのですが、非常に長いため、本稿で読みやすく再編集しました。

なぜミスは起こったのか

なぜこのようなミスが起こったのか、アダチ版画研究所は二つの理由を挙げています。

理由① 浮世絵版画の制作工程ではフルカラーの完成予想図が存在しないから
理由② 広重の「名所江戸百景」は版の構造が非常に複雑だから

それぞれについて説明します。まず①。一部の例外を除いて、浮世絵版画の制作工程にはフルカラーの完成予想図というものは存在しません。絵師が描くのはモノクロの版下絵のみ。それを彫師が板に直接貼り付け、絵師が描いた下絵と同じ図柄の版木を彫ります。

浮世絵版画は、絵師・彫師・摺師の三者の共同制作。絵師が描くのはモノクロの下絵のみ。

この版木によって下絵を複写できるようになると、今度はそこに絵師が作品を完成させるのに必要な版木の分だけ色の指定を行なっていくのです。このとき絵師は、朱墨で版の形を指定し「アイ(=藍色)」とか「クサ(=草色)」というように指示だけ書き込みます。そう、浮世絵の完成図は職人たちの頭の中で共有されるんです。

必要な枚数の版木が一式揃ったところで初めて、版元と絵師が立ち会って摺師が試摺りを行い、具体的にどこをどんな色味で摺っていくのかを打ち合わせます。ここでようやくフルカラーの完成見本ができあがるのです。

そして、ミスが起こった理由②が、「名所江戸百景」の版の構造の複雑さです。ゴッホが模写したことでも有名な、あの雨の名作「大はしあたけの夕立」も「名所江戸百景」の一図。刊行が幕末にさしかかるこの広重の一大シリーズは、各作品、版の数も摺りの回数もかなり多いんです。「大はしあたけの夕立」の摺りの工程を例に見てみましょう。

歌川広重「名所江戸百景 亀戸天神境内」*アダチ版復刻浮世絵(資料提供:アダチ伝統木版画技術保存財団)

この作品はこれだけのパーツで構成されているんです。同じ鼠色でも、部分に合わせて摺り分けていたりします。そして色の数=版木の枚数、というわけでもありません。浮世絵版画の版木は高価な山桜の板を使用するため、複数の版を一つの面に集約したり、一つの版を用いて種々の摺りの技法を組み合わせたりもします。

「亀戸天神境内」の橋下の水色は、上記の①②の理由に、何らかのアクシデントが重なって発生してしまったと思われます。 いやでも、あんな濃い青色で摺っていたら、どこかで誰かが気づきそうなものなので、やっぱりナゾですね……。

さらにマニアックに当時の状況を想像する

さて、ここからはさらにマニアックな話になるのですが、浮世絵の版の構造を図解しながら「亀戸天神境内」のミスがどのようにして起きたのかを想像してみます。ただし「亀戸天神境内」の版を全部説明すると要素が多すぎるので、構図を簡略化したこちらの図で説明します。

このような図を版画で作ろうとした場合、必要な版木は下図のようになります。墨線の版木と、色の部分の版木がA、B、Cの3種類。「たったこれだけで、上の図が完成する!?」と驚かれる方も多いかもしれません。ボカシ(グラデーション)の表現は摺師の技術でいかようにも摺ることが可能です。

ここで問題の「橋の下」の部分が「池の水」の部分と同じ色版Cになっているのがお分かりいただけますでしょうか。おそらく広重の「亀戸天神境内」も当初このような版の構造(実際はもっと複雑)をとっていたのでは。 そう、「ナゾ」の事件の誘因は版木と共に生まれていたのです。

「橋の下」を色版Bと一緒にしておけばリスクは減ったのに、と思う方もいるかと思います。それも版の構造上は可能ですが、そのために下図のように「橋の下」と「池の水」の両方と隣接している「対岸」部分の色版Dが新たに必要になります。

版木のコストダウンを意識した彫師は、おそらく最初にご紹介したA、B、Cの3版で制作できる板割りを選んだはずです。

これを踏まえて、改めて太田記念美術館が所蔵する2図を見てみましょう。誤って「橋の下」を「池の水」と一緒の水色で摺ってしまったとして、なぜ後摺ではその修正のみならず「天」の色も変えたのか。 もしかしたらこの作品の色、もともと2案(以上)考えられていたのかもしれません。

というのも、フルカラーの完成図が存在しない浮世絵版画の制作工程は、版木の制作が完了した後でも、色や摺り方を検討することが可能だからです。実際に、この作品は赤空ver.も青空ver.も甲乙つけ難いですよね。広重も版元も「どっちが売れるだろう」と校正の段階まで迷っていたのはないでしょうか。

ここからは想像です。解説用に簡略化した図であっても、色版BとCだけで9回の摺の工程が発生します。

二つの案のどちらにするか、色々試し摺りしているうちに、摺師と版元の間で混乱が生じたかもしれません。また1つの作品の摺りの工程を複数の摺師が分担することもあり、伝達がうまくいかなかった可能性もあります。

とは言え、数百枚単位で摺っているので、途中で誰も気づかなかったというのは本当に「ナゾすぎ」ます。濃い色は摺りの工程の後の方なので、完成間近でこのミスが発覚し、やり直せば人件費が回収できないと判断した版元が、そのまま制作を続行して販売してしまった可能性もあり得るでしょう……。

さまざまな想像を掻き立てる「亀戸天神境内」の橋の下の水色には、まさに浮世絵鑑賞の醍醐味が詰まっているように思います。 絵師・彫師・摺師の三者の共同制作である点、また当時の社会背景や経済流通の事情と密接に関係している点を意識すると、また違った浮世絵の面白さが見えてくるのではないでしょうか。

協力・太田記念美術館(@ukiyoeota)
文&画像・「北斎今昔」編集部