浮世絵の歴史とともに歩んだ、画狂老人・北斎の人生

浮世絵の歴史とともに歩んだ、画狂老人・北斎の人生

数々の名作を世に送り出し、90歳という長寿をまっとうした葛飾北斎。浮世絵版画の歴史とともに歩んだ、その人生をご紹介いたします。

北斎6歳、世界は色彩にあふれた!

浮世絵師・葛飾北斎は宝暦10年9月23日(1760年10月31日)、葛飾郡本所割下水(現在の東京都墨田区)に生まれました。幼少期から絵を描くのが好きだったと言います。

そして北斎が数え年で6歳のとき(1765年)に、江戸で浮世絵版画の多色摺の技術が完成します。織物に例えられ「錦絵」と呼ばれた多色摺の浮世絵版画が絵草紙屋の店頭に並んだとき、北斎少年はきっと、その美しさに心奪われたことでしょう。北斎にとって、浮世絵版画とは、華やかな最新鋭のマスメディアだったわけです。

10代の頃の一時期、北斎は木版画の彫師として修行を積み、やがて浮世絵師・勝川春章(1729-1793)に弟子入りします。師匠の一字をもらい「勝川春朗」と名乗り、おもに役者絵を描いていました。

葛飾北斎「三代目市川高麗蔵の平井権八」(右)「松本幸四郎の幡随長兵衛」(左)*アダチ版復刻浮世絵(画像提供:アダチ伝統木版画技術保存財団)

90年におよぶその人生は、物心ついて間もない時期から、浮世絵版画の歴史とともにあったと言って過言ではありません。

壮年期の北斎は、知る人ぞ知る絵師だった?!

さて、春章に弟子入りしてから十余年が経ち、35歳の頃、北斎は「俵屋宗理」と名乗ります。なんらかの理由で、勝川派と決別したのでしょう。琳派の祖とされる俵屋宗達(生没年未詳)との関係性をほのめかす名前ですが、詳しいことはわかっていません。

途中「北斎辰政」と名を改めますが、この時期の北斎の仕事は、肉筆画や摺物(非売品の浮世絵)などオーダーメイドの制作がほとんどです。「宗理」になって以降の北斎の画風は、勝川派の様式を離れ、どんどん独自のものになっていきます。

葛飾北斎「隅田川」『東都勝景一覧』より(参照:ART INSTITUTE CHICAGO

北斎が「春朗」の名を捨てたのは、写楽が浮世絵界で鮮烈なデビューを飾った年であり、歌麿の美人画全盛期でした。30-40代の北斎は、当時の浮世絵界のブームとはやや距離を置き、文芸界の交友関係を中心に、仕事を受け粛々と絵を描きます。

そして40代の後半には読本の挿絵の仕事も舞い込み、やがて曲亭馬琴(1767-1848)との最強タッグで『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』などのヒット作を生み出すのでした。

葛飾北斎「木綿山に雷公重季を撃」『椿説弓張月』より(参照:国立国会図書館デジタルコレクション

こうして北斎の名は読本の挿絵を通じて次第に知れ渡り、弟子の数も増えていきました。そんな北斎が、50代後半から取り組んだのが絵の教科書、つまり「絵手本」の制作です。あらゆる対象をユニークかつ巧妙に描いた『北斎漫画』は、教材という枠を越えて、多くの人々に楽しまれました。

70歳を過ぎて到達した画境、不朽の名作「富嶽三十六景」

着実に人気と実力を伸ばしてきた北斎、再び錦絵の仕事に着手するのは、70歳を過ぎてから。

天保初年、全国各地から眺めた富士山を描く36図の風景画シリーズ「富嶽三十六景」の刊行がスタート。どの浮世絵の流派にも属さない、中国や西欧の絵画までを研究した力強い北斎独自の画風は、人々を圧倒しました。当時の熱狂的な富士山信仰もあり、「富嶽三十六景」はさらに10図が追加され、46図に。浮世絵史上屈指のベストセラーとなるのです。

70歳を過ぎた北斎が描いた「冨嶽三十六景」は大ヒット商品に。
葛飾北斎「冨嶽三十六景」より(画面左上から時計回りに)「駿州江尻」「凱風快晴」「甲州犬目峠」「神奈川沖浪裏」*アダチ版復刻浮世絵(画像提供:アダチ伝統木版画技術保存財団)

人気を博した北斎は、その後10年ほど錦絵の発表を続けますが、最晩年はまた絵手本と肉筆画の制作に戻りました。その筆はまったく衰えず、自ら「画狂老人」と名乗ったことにも表れている通り、老いてなお画道ひと筋。神羅万象あらゆるものを描き、つねに意欲を失わず、さらなる高みを目指し続けた人生でした。

嘉永2年4月18日(1849年5月10日)、葛飾北斎は90歳で人生の幕を閉じました。今際の際、「あと5年、いや、あと10年生きながらえることができたならば、本物の絵描きになれたのに……」と言ったと伝えられています。

文・「北斎今昔」編集部